桜ながし 只、見ていた。花の盛りを迎えたばかりの桜の木を。夜半に降り始めた雨がその花を落とす様を。 水を吸って重くなった花びらが、無様に地に落ち泥に汚れる様を。まるで自分の事のように思いながら、 薄紅色が褪せていくのを眺めていた。自然と口元に浮かぶのは自嘲の笑み。こうした光景を幾年繰り返したか知れない。 それでも飽きることなく同じ思いを噛みしめている己の愚かさを嗤った。 「何笑ってんの」 突然その場に響いた声と出現した気配に、砕蜂は思わず飛び退り、腰の刀に手をかける。しかし姿は見えない。 「あーこっちこっち。下見てよ下」 「おまえ……!?」 手すりを掴んでその下を覗き込めば、張り出した廊下の下に黒髪に桔梗色の瞳を持つ美丈夫が、へらへらと笑って手を振っていた。 そんな男に砕蜂は眉を顰めて問いかける。 「そのような所で何をしている」 「あはは。雨宿り?」 「雨宿りだと?まさかおまえ、雨が降り出してからずっとそこにいたのか!?」 「えへへ」 「莫迦者が!何故そのような意味のないことを……ああ!もういい!早く上がって来い!」 普段は滅多にその心を動かさない二番隊隊長が、こんなにも容易く激昂している。誰か他の奴らが見たらびっくりするだろうなぁ、 と口には出さずにはひらりと砕蜂の立つ隣へ上がった。彼女は眉間に皺を寄せながら自分を見上げてくる。 へらり、と笑ってみせればその怒りは益々増したようだ。砕蜂の腕が素早く伸び、その手がの濡れた頬を掴み容赦なく左右に引っ張る。 「ひたた、ひーたーひーよーふぉいふおんー」 「戯けが」 最後に力を込めて引っ張り、乱暴に手を離すとは素早く自分の手を頬にあてる。ちょっと涙目になりながら抗議してくる。 「あーひどいなぁ、もう。赤くなっちゃってるよきっと」 「ふん」 可愛げのない態度を返したのにも関わらず、は笑っている。普通の人、 例えば己の部下である大前田も砕蜂がこのような態度を取る度に必ず内心苦く思っているはずだ。 言葉には出さずとも、いや言葉という形など与えない方が如実に真意を語る。口ではどうとでも取り繕える。 しかし彼らは心の内で「この小娘が」とでも罵っているのだろう。だというのに、今現在隣に立つという青年は笑っている。 嘲笑などではなく、本当にただ、笑っている。彼は普段からよく笑う。何がそんなに嬉しいのか、楽しいのか。 あの美しい桔梗色の瞳に負の感情が宿る場面を、砕蜂は片手に足りるほどしか遭遇した思えがない。 そう、それはあの日であっても変わらなかった。 「どうしておまえはいつもそうなんだ」 思わず口をついて出た呟きは、風を伴いはじめた雨の音に紛れて掻き消えるかと思ったが、彼の耳にはしっかり届いたようだ。 「だってこれが俺だから」 笑い顔のまま言ったその言葉に心がざわめく。どうして。なぜ。あの日に縛られているのは私だけなのか?、お前も――― 「夜一や喜助がいなくなってさびしいよ。だけど俺は俺だから。俺には俺の今日があるし明日もある」 その名を口にした時、砕蜂の顔が泣きそうに歪んだのをは目にした。しかし構わずに続ける。 彼女の前でその名を口にするのはもうしかいなかった。だから敢えて言う。まるで忘れることが出来る過去など存在しないのだ、 と刻み付けるように。 「砕蜂、おまえにだってあるだろう。おまえだけの今日や明日が。夜一がいなくても夜は明けるし、朝は来る。 花は咲くし散りもするさ。過去に囚われるな、なんて言わないけどさ。だってそんなの無理だし。 昨日があるから今日の俺はこうしていられるんだからな。でもいつまでも後ろを振り返ってばかりいちゃいけないから。 あいつらとはほんのひと時、途が交わっただけさ」 「どうしろと言うのだ………私はおまえとは違う……!」 拳を両脇で握り締め、俯き、喉の奥から絞り出すようにして出された声には仄かに微笑み、 雨が降り続ける庭先へと視線を移す。暗闇に白く浮かび上がる桜の木。雨に濡れた花弁が重たく地面に堕ちていく。 晴れた日にはとても美しく咲き誇っていただろうに。可憐な花びらが泥にまみれていこうとも、其れを止める術を知らない。 見ていることしか出来ない。同じことだ。砕蜂も、囚われたまま地に堕ち、誇りを踏みにじられたと夜一を憎んでいようが関係ない。 唯見ていることしかしない。憧憬と崇拝を打ち砕かれ、復讐に昏い情念を燃やす彼女と、裏切りをものともせずに飄々としているとの決定的な違いは時間だ。 過ごした時の永さが両者の心の在り様を極分化している。 「どうすればいいのだ私は」 「考えすぎだよ。頭固いなぁ」 「うるさい!」 茶化すつもりはなかったが、結果的には怒られてしまった。怒声に首をすくめるに砕蜂は鋭い視線を向ける。 ずっと、彼は自分と同じなのだと思っていた。親しき者に裏切られた経験は、同じ深さの傷を抉ったはずだ。 しかし彼はその傷をものともせずに今ここに在った。そうして何も言ってはくれない。ただ傍にいるだけだ。 それだけ。砕蜂が口を閉ざしたので、も黙り込む。ガラスの様な瞳が、散りゆく花を、汚れた花弁を映していた。 「いつまでここにいるつもりだ」 投げかけた問いにも彼は視線をそのままにして答える。 「さあ?雨が止むまで、かな」 「ならば、雨などずっと止まなければいい!」 下を向いたままの言葉は、先刻と同じように寸分違わず届いたようだ。ゆっくりと振り返った彼はやはり微笑んでいた。 「それもいいかもな」 笑んだ口から出た声音は、優しい。優しいだけで砕蜂の心の傷を癒しはしない。傷の癒し方など知らない。 も何も教えてくれない。けれどこうして傍にいてくれる。それだけでいい、と今はそう思う。 少なくともそう思えるほどには、時は経ったのだ、と。気付くのは雨が上がる夜明けだった。 |